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皆川城  栃木県栃木市皆川城内町 2016.11.12 訪問お知らせ


~ 築城主:長沼秀宗(小山政光の次男長沼宗政を祖とする) 築城年:永享元年(1492)に秀宗が会津田島より移り皆川の地に城山を築いた  主な城主:皆川家 廃城年:16世紀末頃?(皆川家第5代弘照の時、1591年栃木城に移った) 主な遺構:郭、土塁、空堀 ~
 皆川家は、鎌倉初期に活躍した長沼宗政(小山政光に次男)を祖とし、永享元年(1492)長沼秀宗が会津田島より移り、皆川の地に城山を築いた。宇都宮氏、佐野氏などと攻防しながら下都賀を支配した。(中略)…弘照時代、戦国末期の小田原北条氏との戦いは熾烈を極め、多くの家臣を失った(草倉山の戦い)。家康の仲介で北条氏と和睦しその傘下に入った広照は、1590年、秀吉の小田原攻めに際し、小田原城に入ったが、家康の勧めにより秀吉軍門に下り、家康に仕えて本領を安堵された。翌年、栃木城に本拠を移し家康六男松平忠輝を養育した。関ケ原の戦いでは、上杉景勝の抑えとして大田原に陣をおいた。
 戦後、忠輝の後見家老として信州飯山で4万石、本領とあわせて7万5千石の大名となった。しかし、忠輝乱行を広照ら3人が訴えたため、1609年謹慎改易となった。(ほかの2人は切腹)玄宥僧正開山の智積院で剃髪し、老圃斎と号した。1615年、豊臣家滅亡の大阪の役に出陣し功績有り、3代将軍家光の就任に際し1623年、広照は常陸国石岡で1万石・息子隆庸は行方郡武田で5千石の大名に復帰した。隆庸の没後、成郷が跡目相続するも、22歳で逝去し嗣子なく断絶。後、弟秀隆が5千石で家督相続し、以後旗本として明治維新まで江戸住まい。江戸古地図に「皆川町」の名称あり。(栃木市観光協会より入手のパンフ、”皆川の歴史と文化”内の「戦国武将皆川家と広照」より引用・抜粋)
JR両毛線・東武日光線 栃木駅(右の写真)から皆川公民館(居館跡・皆川城入口)まで 7.3km。公共交通機関としては、コミュニティーバス”ふれあいバス”があるが便数が少ないので、事前に時刻表をチェックしておく必要がある(Website 或いは観光案内所にて時刻表がもらえる)。このふれあいバスの乗場は栃木駅北口をでたところにある(右下の写真参照)。利用するバス路線は「皆川樋ノ口線」で、皆川郵便局前下車、そこから徒歩約10分…
 
栃木駅北口のバス乗り場…
 このバス停を降りて、少し戻ると下の写真の道路の分岐に出る。ここを標識に従って右側の道を少し歩くとすぐ右側の写真のところに出て、前方に皆川城が見える…山頂の建物は本丸の展望台。
  
 公園の西側入り口から城跡へ入る。
 
 皆川公民館のすぐ裏のところにあった「皆川城址公園案内図」より、地図部分を抜粋・引用させていただきました。現在地のところから、先ず居館跡(現公民館)の西端の土塁の残存を見に行き、そこから、再び、公民館の裏手に回り、横掘に入り東あじさい平まで行き、そこから引返す。途中で上部の通路に出た。そこから池、井戸を経て休憩広場に出た。その後、西の丸経由本丸へ上がった。 
上の写真の標識を曲がると、直ぐ前方に、立派な「皆川地区公民館」が見えてくる。ここが居館跡であり皆川城への登山口…
上の案内図の隣にあった「皆川城復元模型」の写真…まさに法螺貝城ですね!
 
 居館跡の西側の土塁…当時は東西、及び南側に土塁があったとのこと。  左の写真の旧居館跡の西側土塁上に上がる。今でも結構大きな土塁である(高さは2~3Mはあろうか)この左側には、外郭掘りが…左下の写真で分かるように、藪状態である。
     
 居館跡西側の土塁の西の空堀跡…可成り埋まって居り、藪状態で入れなかった。
 
 公民館のすぐ裏の、登山口のところに大規模な竪堀が…右上の写真は竪堀の左の土塁につながる階段。右下の写真は、その土塁の上部に上がり前方を見たもの。
 
 腰郭状の通路に上がり左(西)側を見る…  竪堀の突き当り部分の通路(腰郭)に上がる…ここは鉄製のフェンスが左右に続く
 
こちらは右(東)側通路…
 腰郭のフェンスの切れ目より、少し下の横堀に降りる…右上の写真のところから入った。足元は雑草が茂っていたが大したことはなかった。最初の案内図の「東あじさい平」を目指す。
      
  
この辺で、横堀から腰郭状の通路に上がり、改めて東あじさい平方向へ行く…   右側の通路より、広場に出た…
      
 東あじさい平に近づくと前方の景色が開けてくる。右方向の市街地を見る…   東あじさい平との標示柱がある広場…東あじさい平。あじさいはどこに?
  
 東あじさい平の北端まで行ってみた…行き止まりのようであり引返す
 
東あじさい平から、ブッシュを横切り(右上の写真)、道なき道を上部の腰郭(フェンスのある所)を目指して登る。右下の写真は、途中で振り返って麓の方向を見たもの… 
        
 
 腰郭より、左方向の休憩広場方向を目指す…本丸へは後ほど  下の段に通じる通路(虎口の跡?)を見る… 
  
下を見下ろすと一段低い腰郭が見える、その下には横堀を経て市街地が見える…
 
 休憩広場の、東屋のところ…案内図の「城山」と標示のある場所。西に西の丸、そして下部には大規模な竪堀・横堀が見られる…  最初の案内図の「井戸」、「池」と標示のある場所…手前が池、その先が井戸
     
 休憩広場の標示柱がある広場に出た…
 
 休憩広場より眼下の腰郭、市街地を見る…右の写真の鉄製の枠は、秋のお彼岸に、数千個のペットボトルを利用した行灯を灯す幻想的なお祭りの装置とのこと。毎年9月に「城址まつり」として実施されるようだ(「皆川の歴史と文化」より)  竪堀に沿って、下段部への通路・階段が続く…
     
 竪堀(右の写真)と交差する横堀が見える…  休憩広場から竪堀を見る…折れがあるのがはっきりと見える 
     
 階段を降りて、休憩広場の建物を振り返り見る…
 
休憩広場から西の丸を目指して移動…右の写真で西の丸110mとの標示が見える。そこから右下の写真の階段を上がり、途中で下段・市街地を振返り見る  
    
 西の丸方向への階段…
 
 西の丸に到着…小高くなっているところは物見櫓跡? 城址公園案内図にある「見はらし平」…奥に見えるのは本丸、また、左側の通路は西の虎口へ通じる通路と本丸への階段が…  
     
下を見ると、先ほどの休憩広場と市街地が見える…
 
 右の写真にて「西の虎口330m」とあり、少し降りてみたが樹林の中を暫し行く必要あり、途中で引き返した… 
     
 上の写真のところを左に入ったところ…
 
 「西の虎口」の標示のところへ引き返し、本丸を目指した… 本丸に到着…標高147mの山頂に作られており、その形状から法螺貝城とも称されている。それほど広くはないが立派な展望台が作られており眺望は素晴らしい 
     
 本丸75mの標示…もう少し
 
 皆川城址の石碑と後方には展望台…   栃木市街方面を見る…筑波山、栃木駅、栃木城跡方向
     
西の丸と市街地方向を見る…
 
 本丸から、すぐ下の「見はらし平」に降りて、「城南桜平」へ… 城南桜平から、更に下段の腰郭へ降りる…  降りたところの虎口のような場所を横切り、更に下段に降りる…
     
次の腰郭から更に下に降りる急こう配の階段(階段が急なのでご注意をとの標示がある)… 更に横矢が掛かったような通路を降りる…
階段を降りて上を見上げる…左が休憩広場・竪堀方向
一番下の腰郭から休憩広場方向を仰ぎ見る… 左、竪堀まで75mとある…
居館跡(現公民館)が見える…
 金剛寺 皆川初祖長沼秀宗の母を開基として、1440年頃創建。皆川家菩提寺として、長沼秀宗より一代も欠ける事無く葬られている。(皆川地区街づくり協議会歴史文化部会発刊の「皆川の歴史と文化」より抜粋)
     
 墓地入り口の「皆川家歴代祖廟」の説明板…
 
交通アクセス:JR両毛線・東武日光線「栃木」駅より、コミュニティーバス「ふれあいばす」、皆川樋野口線にて、皆川郵便局前で下車、徒歩約10分…ふれあいバスの便数は少ないので事前チェック必要
※ You Tubeに「皆川城ー栃木市 別名法螺貝城」をアップしました!こちらをクリックしてYou Tubeのページへジャンプしてください!

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