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飫肥城 宮崎県日南市飫肥 2025.7.30 訪問 | ||
~ 築城者 不明(伊東祐兵?) 築城年 不明 1587年、1686年、改修 主な城主 伊東氏? 廃城年 明治9年(1878) 遺構 石垣、堀など 復元 藩校・振徳堂(1976年)、本丸門(櫓門)(1978年)日本百名城(2006年指定、96番目)、市指定史跡(平成3年) 市指定史跡(平成3年) ~ | ||
飫肥城は、中世には島津氏と伊東氏の抗争の舞台として、近世には飫肥藩伊東家の居城として、現在の宮崎県を代表する城であった。酒谷川に囲まれた 北側の一段高いシラス台地を縦横に空堀で区画した広大な城域を持ち、各曲輪の独立性の高さが特徴となっている。江戸時代の前期に本丸と二の曲輪とされている範囲だけでも東西約750m、南北500mに及ぶ広大な城であった。飫肥城の大手門は明治6年(1873)に取り壊されたが、昭和53年(1978)、飫肥城復元事業の第二期工事として、当時城郭研究の第一人者であった故藤岡通夫氏の設計・監修により、国内に現存する大手門を参考にして在来工法で再建された大手門は、木造渡櫓二階建て、高さ12.3mを測る。建築材は、飫肥営林署(当時)の三ツ岩学術参考保護林(現在、三ツ岩オビスギ遺伝遺伝資源希少個体群保護林)から樹齢百年の飫肥杉4本の提供を受けた。工事中に、礎石に刻まれた正徳3年(1713年)銘の碑文が発見されており、現在、大手門の内側に保存されている。 なお、現在みられる城内の石垣の大半は、貞享3年(1686)から元禄6年(1693)の大普請によって回収されたものである。 (現地に設置された案内板「史跡 飫肥城跡」説明文より引用。させていただきました。) |
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JR日南線飫肥駅 | 飫肥駅から、酒谷川を渡る今町橋を過ぎて、武家屋敷通りに入り、服部亭を左に見て、大手門通りを進む… | |
国道430号~432号の交差点、432号線に入る | ||
服部亭 築100年以上の屋敷跡を店舗として利用したレストラン…訪問時は営業していなかった | 武家屋敷通り… | |
小村寿太郎生家…武家屋敷通りで、大手門手前 | ||
大手門横の空堀跡… | 飫肥町城下町案内図… | |
大手門通りの反対側の空堀跡… | ||
復元された大手門…明治維新後に建造物の大半が取り壊された。昭和53年に大手門が復元 | 武家屋敷通り…この先が大手門 | |
武家屋敷通りにあった石垣(基本当時のもの) | ||
豫章館(よしょうかん)…明治2年、飫肥藩13代藩主伊東祐相と伊東裕帰(飫肥藩知事)父子が飫肥城を出て移り住んだ | 大手門を入り、大手門枡形に入る… | |
小村寿太郎記念館…日本外交の基礎を築いた小村寿太郎の生涯や偉業が紹介されている記念館 | ||
現存する石垣の上に復元された長塀が見られる | ||
石垣の上に復元された長塀が見られる… | ||
本丸方向に歩いてくると右側に「飫肥城歴史資料館」が見えてくる 昭和53年に完成して、令和4年3月に施設をリニューアル |
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松尾の丸 飫肥城復元事業により1979年に、江戸時代初期のの書院造りの御殿として建設された…左の説明版参照:… | ||
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飫肥城旧本丸跡へ続く階段…元禄6年に現在の飫肥小学校グラウンドに本丸が完成移転した… | ||
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1662年から1684年かけて数回にわたって発生の大地震にて、飫肥城は甚大なる被害を受けた。 飫肥藩は幕府の許可を得て大改修が行われ、本丸も現在の小学校のグランドの場所に移転された…下の写真参照。 |
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